ブログ ‘100年企業のブランドストーリーシリーズ ’ 第3回目は、創業100年の歴史を持つ築地玉寿司の4代目、代表取締役社長 中野里陽平氏にお話を伺います。
プロローグ
2024年4月、陽平氏は87歳の父・孝正を見送った。
四十九日の法要。菩提寺には三十人ほどの親族が集まり、納骨の準備が進められていた。
その時、創業者、栄蔵とその妻である二代目、ことの骨壺がそこにあることが告げられる。
陽平氏にとって、栄蔵は祖父、ことは祖母にあたる。
しかし今まで、特に栄蔵の遺骨の存在を知る者は、誰ひとりとしていなかった。
最初に開かれたのは、祖母、ことの骨壺だった。
三十年以上の歳月を経ても、驚くほどしっかりと残る骨。
ことの歩んだ激動の時代が、無言のまま語りかけてくるようだった。
そして、祖父、栄蔵の骨壺が目の前に置かれる。
それは、思いのほか小さく、慎ましさを感じさせた。
誰も知らなかった、祖父の遺骨の存在。
静寂の中、骨壺の蓋がゆっくりと開かれていく——
次の瞬間——
その場から驚きの声があがった。
1, 後継者としての原点
東銀座の銀座松竹スクエアの一角に佇む築地きたろう店。名物ともいえる裏メニュー「ばらちらし」をいただきながら、株式会社玉寿司の代表取締役社長、中野里陽平氏(以下陽平氏)のお話を伺った。この店は、陽平氏にとって特別な思い入れのある場所である。
2001年、当時29歳だった陽平氏は、父であり先代社長の孝正氏から初めて店舗づくりを一から任されるという大役を託された。限られた予算の中、無駄な費用を徹底的に削減し、店舗デザイン、メニュー、ロゴに至るまで、すべてを自分たちで手掛けた。
まるで子どもの成長を見るかのような眼差しは、その時の努力と愛情を物語っている。若さゆえの情熱は、店づくりに没頭する中で、彼に初めて「自分は店作りが心から好きだ!」という確信を抱かせた。築地きたろう店のプロデュースという大きな試練を乗り越え、その成果を目の当たりにした孝正氏は、陽平氏を正式に4代目の後継者として認めた。現在もこの店は、歌舞伎役者や松竹映画関係者をはじめ多くの人々に愛され、東銀座の看板店としてその存在感を放っている。



2.「要石にならないか」〜 引き受けた試練
1999年、米国の大学を卒業した陽平氏は、玉寿司に入社する。しかし、入社直後、経理担当者から伝えられたのは衝撃的な事実だった。バブル期の不動産投資の失敗で、会社は78億円もの債務を抱えていたのだ。
父であり当時社長であった孝正氏は、暖簾の信用を守るために、一族の資産をすべて放棄するという決断を下した。そしてこう語りかけた。「囲碁には捨て石と要石がある。取られても構わないのが捨て石。一方、取られると形勢が逆転するくらい重要な石が要石だ。玉寿司の捨て石は財産や名誉。しかし、要石は暖簾の信用、社員、そして後継者。この負債を背負えるのはお前しかいない。どうだ、要石にならないか?」
その言葉を受け、陽平氏は覚悟を決めた。「はい」と答えた瞬間、体中を熱いマグマのようなものが駆け巡ったという。その体験は、まるで先祖たちが「良くぞ引き受けた!」と背中を押してくれているように感じたのだ。
しかし、暖簾を守るということは、容易なことではなかった。玉寿司が直面していた財務状況は最悪で、事業再構築の計画を練るためには経理担当者と徹底的に向き合い、不動産投資を勧めた金融機関とも交渉する必要があった。さまざまな難関が襲いかかったが、2005年の社長就任時、5年かかると言われた債務超過の解消を3年で達成。12年で完済した。大きな苦難を乗り越え、ついに福門を開いたのだ。
「なぜ暖簾を守るのか?」その問いに、陽平氏は迷いなく答える。「それは『玉寿司愛』があるからです」。その愛の源泉は、幼い頃から聞かされてきた祖父母の物語にあるという。戦後の焼け野原の中、命がけで暖簾を守り抜いた祖母の姿が、陽平氏の心に深く刻まれている。


3.玉寿司の創業 〜 栄蔵と妻、とき
玉寿司の創業は1924年に遡る。祖父・中野里栄蔵が「一旗揚げようじゃないか。俺は寿司屋になる」と決意し、築地に寿司店を開業したのが始まりだ。関東大震災で東京は焼け野原と化し、それまで日本橋にあった魚河岸が築地に移転した。このタイミングでマグロ問屋を営んでいた栄蔵は寿司店への転身を果たしたのである。
当初の玉寿司は、イートイン形式と出前が中心の営業形態で、新橋の花柳界や旦那衆を主な顧客とし、御座敷に寿司を届ける文化が根付いていた。
ところが、1945年の東京大空襲で店は焼失し、大切な拠点を失うこととなる。さらに追い打ちをかけるように、栄蔵は脳溢血で倒れ、帰らぬ人となった。祖母のことに遺した最後の言葉は「玉寿司を頼む」だった。
39歳で夫を亡くしたことは、4人の子どもを抱えながら商売を続けるため奮闘する。GHQの政策により、米を扱う商売が禁止された3年間は、干し芋を売って家計を支え、その後、店を再建。しかし職人がいない中、「板前がいないなら、私が握る」と決意した彼女の姿は、家族にとって勇気と努力の象徴として語り継がれている。
だからこそ、祖父母が流した血と汗と涙が染み込んだ暖簾を守ることは、陽平氏にとって、絶対的な使命だと感じている。


4.祖父母との邂逅(かいこう)
2024年4月、陽平氏の父・孝正氏が87歳で亡くなった。その四十九日の法要の際、納骨の準備をしていると、初代と二代目の骨壺もそこにあることを知らされ、親族30人ほどが集まる中でその骨を見せてもらうことになった。特に祖父・栄蔵の遺骨の存在については、家族の誰もが知らないままだった。
祖母・ことの骨壺を開けると、30年以上の時を経てもなお頑丈な骨が残っていた。その姿は、彼女の生き抜いた強さを物語っている。そして初代、栄蔵の骨壺を開けてみることになった。その骨壺はとても小さかった。「なぜ栄蔵さんだけ、こんなに小さいのか…」と不思議に思った陽平氏は、その理由を推測する。
「東京大空襲の直後、まともな火葬場もなく、恐らく戦没者と一緒に共同で火葬されたのだろう。祖母が何とか頼み込んで火葬してもらったのだと思います。だから開けると、土の匂いがしました。」
80年ぶりに初代の骨に触れ「お祖父さん、やっと会えたね」と心の中で語りかけた。

「初代は本当に厳しい状況の中で命を終えたけれど、こうして暖簾が続いているのは、奇跡なんだ」と感慨深く語る。祖父・栄蔵の「玉寿司を頼む」という遺言を胸に、祖母・ことは懸命に店を守り続けた。その姿を見て育った父・孝正氏、そしてそれを受け継いだ陽平氏の中には、先代たちの歴史を絶対に忘れないという深い愛が脈々と流れている。
5.不完全な人間たちだからこそ愛情をそそぐ
事業再生の道筋が立ち、陽平氏が経営者としての第一歩を踏み出した時、支えてくれた番頭さんがいる。 彼は今も常務取締役として、本店で寿司を握っている。 現場から叩き上げの人物で、お客様を魅了しファンにする力を持っている。陽平氏とは二人三脚で多くの試練を乗り越えてきた。
しかし、その番頭も若い頃は問題を起こして一度店を去ったことがある。北海道の辺境にある寿司店で働いていた彼を、1年後、当時の幹部が迎えに行き「そろそろ戻って来ないか」と声をかけた。その出来事がどれほど嬉しかったか。「こんな自分を待っていてくれた」と心の底から感動したそうだ。
「父もまた、不完全な人間を受け入れる人でした」。完璧ではない板前たちを愛情を持ってフォローし、人として育てていく。それが玉寿司の家族的な温かさであり、働く人々の玉寿司愛を育む基盤となっている。
人は不完全な存在だからこそ、支え合い、長所に光を当て続けることが大切だ、と陽平氏は考える。それは簡単なことではない。企業として成長し競争社会で生き残るために完全さを求めつつ、不完全さに直面したときに、どのように向き合うかが問われる。
「生産性向上や業績アップはもちろん重要です。しかし、問題が起きたとき、ブレずに対応できるかどうか。それが企業として真価を問われる瞬間です。その精神が今も玉寿司を支えているのです」。
6.江戸前の技を伝える玉寿司大学
2017年に開校した「玉寿司大学」では、新卒採用した若者たちに、基礎調理力、基礎接客力、人間力という3つの柱を掲げ、100日間の徹底したトレーニングを行っている。包丁を握ったことのない若者が見事に魚を捌けるようになるまで成長する姿は、感動的だという。
「寿司職人という仕事に興味を持ってもらえるのが一番嬉しい」と語る陽平氏。その中でも特に目立つのが、職人を志す女性たちの存在だ。
現在活躍している女性職人の一人は、2万円のおまかせコースを見事にやり切る。彼女はまだ入社3年め。「3年でここまでよくやってきた」と陽平氏はその努力と真面目さを称賛する。彼女は、男女の性差を超え「人柄」でお客様の心を掴んでおり、特に女性経営者のファンが多いという。
「かつての修行の世界は閉ざされた狭いものでした。もしそのままだったら、多様な背景を持つ人々が職人になることは難しかったでしょう」。玉寿司は業界に先駆けて合理的な人材育成に舵を切り、多様性を尊重する企業文化を築き上げた。その結果、様々な人々が活躍できる職場が実現している。「江戸前寿司とは、魚をシンプルに美味しくするための究極の技術を凝縮した食文化です。その粋は寿司屋に集約され、人の手によって作り上げられるもの。だからこそ、時間やコストがかかっても、その技術を次世代に伝えることが玉寿司の存在意義そのものなのです」と語る陽平氏。その言葉には、江戸前寿司への揺るぎない愛と誇りが込められている。
7.玉寿司の未来
玉寿司が目指す未来はシンプルだ。壮大なビジョンを掲げるのではなく、「今日一日、来てくださるお客様や共に働く仲間から『ありがとう』をいただけますように」という願いを込め、日々丁寧に積み重ねること。それが陽平氏の考える「玉寿司の未来」だ。
「お客様が『美味しくて幸せ、ありがとう。また来るね』と言ってくださる、そんな食の時間を提供することが私たちの使命だ」と語る。そのためには、お客様のどんな些細な不満や問題であっても見過ごさず、改善を繰り返すことが重要だという。その積み重ねがやがて会社の成長や財務状況の改善にもつながる。
「10年後、100年後どうなっているかはわからない。でも、今日ご来店くださるお客様を絶対に裏切らない。それだけは変わらない」。
次世代への承継について話すとき、陽平氏の顔は自然とほころぶ。「自分が後継者だと思っていたら、気づいたら折り返し点を越えていた。次を考えなきゃいけない時期ですね」と。そして、後継者については「自分がこの山登りを楽しめるかどうかが一番大事」と語る。
「僕は店をこうしよう、ああしようと考えるのが大好きなんです。もし好きじゃなかったら、この仕事は地獄ですね」。陽平氏は、37店舗を築き上げた経験を振り返りながら、この仕事を心から楽しんできたことを誇りに思っている。
時には、自身がつくった店に子どもたちを連れて行き、店づくりのこだわりや想いを話す。「息子が高校3年生のとき、半年間一緒に魚をおろして、握りや巻き物をつくり、卵を焼いたりしました。なかなか 彼も器用にやっていました。楽しんでくれたので、とてもいい時間でした」
「玉寿司が次の代、その次の代へと受け継がれ、100年後も同じようなことを語ってくれていたら、それが一番幸せかもしれません」陽平氏の言葉には、暖簾を守る覚悟と愛情が込められている。
8. 愛される大衆寿司店でありたい
「玉寿司が目指すのは、日本に欠かせない『大衆寿司店』であり続けること。日本にあってよかったと思われる店でありたい。気軽に足を運べる日常使いの寿司店でありながら、職人が丁寧に握る寿司を楽しむ贅沢も味わえる。そんな絶妙なバランスを保ちながら、行きやすいね、入りやすいねと感じてもらえる店づくりを大切にしている」と語る。
「そして、日本の精神、おもてなしの心が息づいている寿司屋さんだね、と言われ続けたい。そのためには、凡事を徹底することが大切です」。玉寿司では「清掃を徹底する」「笑顔で挨拶する」「感じの良い言葉遣いを心がける」「目配り・気配りを怠らない」という4つの当たり前の実践を柱としている。それを続けることで、玉寿司の真髄が守られている。
「日本人が言う『きちんとした』経営ってすごいと思うんです。ハイレベルな清掃、おもてなし、そして繊細さ。それらを大切にしながら仕事をすることが日本らしさであり、それを玉寿司は守り続けます」陽平氏の眼差しは、玉寿司を未来へつなぐ使命感に満ちていた。



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