100年企業のブランドストーリー_ Vol.4 株式会社 武蔵境自動車教習所 代表取締役社長 髙橋 明希 氏

『100年企業のブランドストーリー』第4弾は、創業65年の武蔵境自動車教習所 髙橋明希社長が登場。教習所のイメージを塗り替え、全国から視察が絶えない企業へと変貌を遂げた背景には、父から受け継いだバトンと、時代を読む冷静な経営戦略がありました。その歩みをひも解きます。



今から16年前。
株式会社武蔵境自動車教習所の社長に就任したばかりの高橋明希氏は、ある葛藤を抱えていた。

どうすれば社内をまとめられるのか。
どうすれば業績を上げられるのか。
どうすれば社員にリーダーとして信頼される存在になれるのか。

毎日が模索と不安の連続だった。自身の未熟さを痛感する日々。答えは見えなかった。

そんなある日。
明希氏は、何気なく高齢者講習の会場に足を運んだ。
もともと現場の声を聞くのが好きな明希氏は、参加者と自然な流れで言葉を交わす。
すると、年配の受講者たちが、口をそろえてこう語った。

「50年前、ここで免許を取ったときは、ひどいところだったけど……
いまはテレビでも見るような、いい教習所になったね」

その一言に、明希氏の心は強く揺さぶられる。

50年も前の教習所での記憶が、人々の中にいまも鮮明に残っている――
この場所は、単に免許を取得する施設ではないのかもしれない…。
とすると、人生の大切な「思い出」をつくる場所なのではないか…。

「そうだ、これを、私たちのビジョンにしよう」

心に決めたその瞬間から、若き経営者としての、
リーダーとしての歩みが、始まった。

武蔵境自動車教習所
教習車のラッピングも楽しい
いつも受付にいる明希社長
65周年を迎えた社屋にかかる感謝の幕

今回の100年企業のブランドストーリーは、東京都武蔵野市にある株式会社武蔵境自動車教習所の代表取締役 高橋明希さんの登場です。武蔵境自動車教習所は、1960年設立、今年で65周年を迎えた地域密着型の教習所。社員約150名、年間約8,000名が利用し、26年連続で中央線沿線No.1の入所者数を誇ります。また、その革新的な運営とおもてなし経営が評価され、経済産業省「おもてなし経営企業50選」、「がんばる中小企業・小規模事業者300社」、人を大切にする経営学会「第9回日本でいちばん大切にしたい会社大賞」、船井財団「グレートカンパニーアワード2020」など、数々の賞を受賞。全国から視察が訪れる、“教習所の枠を超えた教習所”として注目されています。

取材当日、明希社長は、「私は受付にいますから~!」と軽く言われたんですが、私はその意味がよくわからずにいました。しかし、実際訪問してみて、思わず驚きました。まさか、本当に社長が受付に立っているなんて!しかも、すべてのお客様を笑顔で迎える姿には、ただならぬ存在感と、光を放つようなオーラを感じたのです。

「私は、いつも現地現物主義なんです。ここにいると、お客様にはどんなお悩みがあるか、社員たちがどのように対応してるか、すぐわかる!ここの雰囲気で今の教習所の状態がわかります」

なんと、明希社長には、決まった席がなく、いつも受付に立っているのだそうです!

そんなユニークで、エネルギーあふれる明希社長が語る、武蔵境自動車教習所のブランドストーリー。その歩みを、じっくりとひも解いていきましょう。

経営者になるなんて、まったく想像していませんでした。

私はもともと、大学を出たら花嫁修行して結婚する…
それが“あたりまえ”だと思っていました。
父(高橋勇代表取締役会長)も「明希だけは働かなくていい」と言っていたくらいです。
ところが卒業間近になって、突然こう言われたんです。
「みんな就職するらしいから、1年くらい働いて、1万円のありがたみを知ってこい」と。

それで、父の知人が経営する自動車教習所に「1年だけ」のつもりで入社。
最初は受付でしたが、ある日社長に「インストラクターやってみないか?」と言われて――
「面白そう!」って思っちゃったんです。

でも当時の私は、ペーパードライバーで運転できなかった(笑)
それでも資格を取って、晴れて教習指導員に。
気づけば、1年のつもりが、2年4か月お世話になっていました。

ある日、父がこう言ったんです。
「娘がそろそろ結婚して、いなくなるかもしれない。だからその前に一緒に働いてみたい。
娘を返してくれ」
……えっ、私モノ扱い?(笑)
こうして今度は正式に、父の会社である、武蔵境自動車教習所に
インストラクターとして入社しました。

ところが、「社長の娘が来るぞ」と社内はざわざわ。
上司を決めるのに、あみだくじまでやったらしいです。
“めんどくさいのが来た”って思われてたみたいで。
腫れ物を触るような扱いでしたが、私はただ毎日、会社に通い続けました。

ある日、ふと「もう辞めようかな」と思って、上司に相談したら、
「契約期間があるから、簡単には辞められないのよ」と言われてびっくり。
本当に何も知らなかったんです(笑)

その姿にあきれた父が、「経営者向けのセミナーに行ってこい!」と送り出しました。
私は経営者になる気なんてなかったけれど、
「とりあえず、行ってみるか」と思って参加しました。

するとそこには、何百人もの社長や後継者がいて、
会社をどうよくするかを真剣に議論していたんです。
その光景に、衝撃を受けました。

社長ってゴルフでもしてるもんだと思ってたんです(笑)
「社長って、ちゃんと考えてるんだ…!かっこいい!」
26歳の私は、あの日初めて“経営”というものの、”本気の空気”に触れました。
そして思ったんです。

――私、社長になりたい。

当時参加した起業家養成スクールで
真剣に学ぶ明希氏


私が「社長になる」と決めたのは、2003年の10月のことでした。
でも、父にははっきり言われました。「ダメだ」と。
ずっと反対されてましたよ。

どうせすぐに諦めるだろう、って思ってたんでしょうね。
でも、私そんなに簡単に諦める女じゃないんです(笑)。
「そんなに社長になりたいなら、まずは勉強しろ」
そう言われて、本気で学びました。

厳しい数々の研修も、食らいついて、全部やりきった。
やってみたら、意外と性に合ってたんですよね。

ある日、父からこんな問いを投げかけられました。
「経営理念はどうするつもりだ?」
私は迷わず答えました。 「変えません」って。
そのとき、父は思ったんでしょう。
“この子に任せても大丈夫かもしれない”って。

早稲田大学大学院でMBAを取得した後、
2009年、ついに社長に就任しました。
予定より1年早い船出でした。
というのも、そのとき業績が大きく落ち込んでいたんです。
「こんなときこそ、社長交代が一番の起爆剤になるかもしれない」
会長(父)は、そう考えたそうです。

でも、世間の目は冷たかった。
「若すぎる」 「経験が足りない」 「会社が潰れる」――

そんな声が、取引先からも、同業者からも聞こえてきました。
私の就任を、誰もが“無謀”だと思っていました。

社長就任時の挨拶の様子
挨拶をする明希氏

当時の社員たちも、私のこと、大嫌いだったと思います(笑)。

初日、インストラクターたちの部屋で、就任挨拶をしたのですが、
ほとんどの人がこちらを見ようとしない。
歯を磨きながら聞いている人さえいました。

その時、思いました。「MBAで学んだことは、ここでは通用しないな」と。
「お父さんにはお世話になった。でも、あなたを支える気はない」
そんな言葉を残して去っていった方もいます。

悔しかった。悲しかった。胃に穴があくほど、毎日が苦しかったです。
そんな私に、父はこう言ってくれました。
「人が辞めるというのは、新しい風が入るということだ。気にするな」
あの言葉には、救われました。

私は、現場に頭を下げることから始めました。
「教えてください」と素直に頼み、現場の声を少しずつ取り入れて、
できることから改善を進めていきました。

たとえば、お迎えのスタイル。
「ここは、他の教習所と違う」と思ってもらえるように、
来てくださったお客様全員に、心を込めた接客でお出迎えし、
気持ちよく帰っていただけることを大切にしてきました。

そして、業績がいいとされる会社を、幹部と一緒に視察して回りました。
建設業、トラック業界、幼稚園まで。
「なぜ好調なんですか?」と聞くと、多くの会社が朝礼を行っていた。

私たちの朝礼も変えました。
今まで連絡事項だけだったのを、自分たちに合った“学びの場”にすることにしました。
たった10分ですが、その積み重ねが、年間で50〜60時間の学びになる――
その大切な時間を社員全員で共有しようと考えたのです。

社長として軌道に乗ってきたころ
活気ある議論をする社員たち

冒頭で、「お客様の一生の思い出をつくる」という新たなビジョンが生まれたエピソードをご紹介しましたが、この言葉、最初から社内で歓迎されたわけではありませんでした。

それまでの弊社のビジョンは「お客様満足日本一」でした。
私は、新しいビジョンとして――「お客様の一生の思い出をつくる」
――そう掲げようと、社員たちの前で話したんです。
すると、「またバカなことを言い出した」「全然わかってない」――
そんな空気が社内に広がりました。共感どころか、呆れられるような反応でした。

でも思ったんです。
「どの会社でも言えるビジョンから、新しい価値なんて生まれない」と。

ある日、全社員が集まる研修の場で、私は問いかけました。
「みんなが初めて免許を取ったときの思い出を教えてほしい」

すると、「すごい行列でキャンセル待ちだった」とか、「車庫入れが、得意だった」「筆記で落ちたことがあって…」「何回もS字で脱輪した」「先生が怖くて、でも最後によく頑張ったなって言ってくれた」――ひとりひとりが、そのときの記憶を語ってくれたんです。

当時、ディズニーランドの年間パスポートを持つ“ディズニーオタク”の社員がいたんですが、
「じゃあ、その年にディズニーランドで何が一番印象に残ってる?」と聞いたら――
答えられなかった。

私は言いました。 「私たちは、ディズニーランドよりも深く、
思い出をつくってるのかもしれないよ」って。
その瞬間、社員の目が変わったんです。
「ああ、このビジョンはいける」と思いました。

反対を押し切って、正式に新しいビジョンを「お客様の一生の思い出をつくる」に定めました。
“一生の思い出”をつくる仕事だと思えば、やり方なんていくらでもある。
そう信じて、会社は次のステージへと進み始めました。

そうした積み重ねの結果、少しずつ数字にも表れてきました。
翌年、入所者数が1割増え、さらにその翌年も1割増えました。
少しずつですが、会社の空気が変わっていったのを感じました。

あの時期は本当に大変でしたが、私にとって経営者としての原点だったと思います。

地道な努力を続けていたある日、思いがけない転機が訪れました。2012年、経済産業省の「おもてなし経営企業50選」にエントリーする機会があり、一次、二次審査を通過し、見事受賞を果たしたのです。翌年には、同じく経済産業省による「がんばる中小企業・小規模事業者300社」に選出。2015年には「ダイバーシティ経営企業100選」にも選ばれ、自動車教習所業界では異例の快挙となりました。快進撃は続き、2019年には「第9回 日本でいちばん大切にしたい会社大賞」を受賞。明希社長の取り組みが、世の中に認められるようになっていったのです。

私たちの経営理念は、「共尊共栄」です。
――精一杯伝えよう。感謝を精一杯育てよう。可能性を精一杯、未来のために。

この理念は、私が社長になるときに「変えない」と約束したものです。

もともとの理念は「共存共栄」でした。
“共に認め、共に学び、共に豊かになる”という、どちらかというと社内向けの理念だった。

時代が変わり、より社外に向けて、私たちの姿勢を表す理念にしたいと考え、「共尊共栄」にアップデートしたんです。

私たちは、武蔵境の地元の方々へ感謝を込めて、サマーフェスティバルや、フリーマーケット、もちつき大会など、地域の恩返しを込めて、多くのイベントを実施しています。

そして、ビジョンは「お客様の一生の思い出をつくる」。

私たちは、単なるサービス業ではありません。
思い出をつくる会社、なんです。

「一生覚えてもらえるような体験って、何だろう?」
そう考えながら、社員一人ひとりが仕事に向き合っています。

経営理念やビジョンを”本気で”掲げることこそ、会社の圧倒的な
差別化になると、私は思います。

MBAで学んだフレームワーク――SWOT分析だとか、競争優位性の理論だとか――
それも考える上では大切かもしれません。
でも、むしろ大切なのは、「うちらしさ」「うちっぽさ」。

「うちの理念だったら、こうするよね」
「これまでの社風なら、こう考えるよね」
――そういう感覚のほうが、はるかに強い指針になってくれるんです。

結局、「なんでこの理念なんですか?」
「なんでこのビジョンなんですか?」
「なんでこの事をやっているんですか?」

その“なんで=WHY”を語れることが、経営戦略以上の戦略になる。
私はそう信じています。

さきほど、「業績のいい会社は、朝礼をやっている」とお話ししました。
もう一つの共通点は、“人事理念”があることです。

父(現会長)は、昔から「やりたい」と手を挙げた人には
チャンスを与えよ、という姿勢でした。
それをそのまま社風にすればいいと思って、
私たちの“人事理念”を「出る杭は伸ばす」と定めました。

最近では「年間休日120日以上じゃないと人が採用できない」なんて言われています。
正直、私としては「そんなの知るか!ほっとけ!」です(笑)。

政府のいう「働き方改革」は、私に言わせれば「働かない改革」です。
本来は「働きがい改革」になって、「働きたい改革」にならなきゃ意味がない。
東京都が「週休3日制にします」なんていってますけど、
私にしてみれば、「バカヤロウ!」って本気で怒っています。

私たちがやるべきことは、「働きたい人」を採用し、
その人が「働きがい」を持てる環境を整え、
その上で「働きたい」気持ちにに変えてあげること。

「休日が120日ないからダメ」「基本給がこれ以下ならダメ」「リモートOKじゃないとダメ」
――そんな条件でないと働けないというのなら、こちらから「来なくて結構」です。
中小企業こそ、そういう強いスタンスが必要だと思います。

そして私は、社員に「作文」を書かせることを強くおすすめしています。
どんなに口ではうまいことを言っていても、人の本音は文章に現れるものです。

うちの会社では、こんなテーマで書いてもらっています。

  • あなたは、なぜこの会社にいるの?
  • なぜ、この仕事でないといけないの?
  • この仕事を通じて、どんな世界をつくりたいの?
  • その世界に向けて、どう行動していくの?

ある人は、原稿用紙にきちんと書いてきます。
ある人は、ぐちゃぐちゃなまま出してきます。
途中でギブアップする人もいれば、最後まで粘る人もいます。

すべてが、その人の“本気度”として、ちゃんと見えてくるんです。
私は、この取り組みをぜひ、他の会社にも勧めたいと思っています。

会社の社長は、やっぱり「引き際」が大事だと、私は思っています。

私自身、社長を続けるのは「創業85周年」までと決めています。つまり、あと20年。
でも、最後の5年は、徐々に後継者に実際の経営を任せていくつもりです。


そう考えると、「本気で走れるのはあと15年」。思ったより短いですね。
だから私は、今年から“引退への15年計画”をスタートさせました。
社長を退いたあとのキャリアも見据えながら、
自分自身の新しいフェーズに向けた準備を始めています。

松下幸之助さんの言葉に、こういう話があります。
「経営理念を確立するだけでは、経営者として50%。
その理念を実践できる人材を育てて、はじめて真の経営者となる」。

まさにその通りだと思っています。
今の時代は、過去の知恵に学びながら、それを活かして
新しい時代と結びつけていく――
そんな“地に足のついた経営”が求められています。

これからも、そんな本質的な経営を実践しようとする仲間たちと出会い、
学び合い、共に成長していける関係を築いていきたい。
そして、私自身も「100年後も語り継がれる伝説のリーダー」を目指して、
歩んでいきたいと思っています。

実は、私の息子はアメリカ育ちなんですが、
その友人にテイラーという全盲の男の子がいます。今、14歳かな。

私はこう願っています。
テイラーのように目の見えない子どもたちでも
いつか自分の意思で運転できるようになる未来を。

テイラーのご両親は「この子の送り迎えをいつまで続けられるのか」と、
ずっと不安を抱えているそうです。

そして、年齢を重ねたおじいちゃん、おばあちゃんたちも
安心してずっと車に乗れる時代を。
そんな未来は、すぐそこに来ている気がします。

だからどうか、「運転免許は返納しなきゃ…」と、
あきらめないでほしいんです。
免許がないと自動運転のクルマにも乗れません。

私は、運転やクルマに対して強いこだわりがあります。
それは、本業に対する“愛”とも言えるものです。

そのこだわりを胸に、
これからも、未来を創るための挑戦を続けていきたいと思っています。

後継社長として、不安や葛藤を抱える経営者は少なくありません。
そんなとき、高橋明希さんは、きっと頼れる存在となるでしょう。

もともと社長になるなんて夢にも思っていなかった彼女は、数々の困難に直面しながらも、ゼロから信頼を築き上げ、今のポジションを手に入れました。
それでも前に進むことができたのは、社員や仲間と共有する経営理念を持ち、常にその理念に基づいて判断し、行動してきたからです。

経営者でありながら、経営者を支えるコーチでもある高橋明希さんの姿は、まさに静かに輝くオーラをまとっていました。

後継社長として、不安や葛藤を抱える経営者は少なくありません。そんなとき、高橋明希さんは、きっと頼れる存在となるでしょう。もともと社長になるなんて夢にも思っていなかった彼女は、数々の困難に直面しながらも、ゼロから信頼を築き上げ、今のポジションを手に入れました。それでも前に進むことができたのは、社員や仲間と共有する経営理念を持ち、常にその経営理念に基づいて判断し、行動してきたからです。経営者でありながら、経営者を支えるコーチでもある高橋明希さんの姿は、まさに静かに輝くオーラをまとっていました。


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